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中医学の歴史9 西洋医学の台頭
中国にも日本にも西洋医学の理論、診断、治療が入ってくると、どうしても西洋医学の速効性という面ばかり注目されて、体質改善とか、副作用が少ないなどの中医学の利点はないがしろにされてしまいました。
この結果、西洋医学を学んだ者以外は医者にあらず、といった考えで中医学や漢方医学は否定されてしまいました。
中国では、幸いにも国民党時代がおわり、毛沢東が率いる中国共産党が革命勝利しました。
毛沢東のスローガンで、中医学は中国の宝とされ、めざましい中医学の復興をみました。
1950年代には、全国の各省に中医学院がおかれ、付属病院がおかれました。
現在では中国国民の中医学に対する意識も高まっていて、西洋医学の利点、中医学の利点をうまく使った治療をおこなっています。
これに対して日本では、漢方はいまだに正式な医学として認められていないと言っても良い状態です。
漢方専門の大学も病院もありません。
漢方をいくら勉強しても医者の資格はもらえません。
「西洋医学を学ばざるもの医師にあらず」の精神が今でも残されています。
また、漢方の効能効果も、西洋医学的な病名で記載されています。
新しい漢方薬の認可を受けるにも、西洋医学的な基準が適応されて、中医学の独自の辨証論治により体質によって使い分けるという基本理念は無視されてしまっています。
これではどんなに素晴らしい漢方薬でも、新しい認可を受けるのは困難です。
大変残念な事と言えます。
中医学の歴史8 日本漢方の問題点
日本は江戸時代の鎖国のため、中国の新しい理論が伝わらなかっため、中医学は「漢方医学」として日本独自の進化をしました。
急性の感染症を治療するには古方派の考えはすぐれていました。
これに対して慢性病の治療は、臓腑辨証により、体質改善していく方法がすぐれています。
古方派の台頭により、後世派の考えがすたれてしまい、臓腑辨証という考え方が日本ではあまり用いられなくなりました。
代わりに考案されたのが腹診です。
お腹の状態を見る事により、どの部分に問題があるかを判断する方法です。
腹診は直接に処方を決めるとても良い方法ですが、やはり問診を中心とした臓腑辨証の考え方が必要と思います。
また、使われる処方も、江戸時代の鎖国や中国との国交が無かった事などが影響して、清朝以降に考えられた処方は日本漢方では殆ど使われていません。
傷寒論や金匱要略の時代の処方が多く、現代中医学の基本処方すら漢方医学では使われていません。
中医学の歴史7 温病
感染性の急性病の治療には、日本では傷寒論を応用していきました。
感染性の急性病には、大きく分けて2種類あります。
一つは、寒気を強く起こす「傷寒」という種類。
もう一つは熱が強い「温病」です。
傷寒論はこのうち「傷寒」の治療には優れていますが、「温病」の治療の解説は粗略でした。
そこで中国では、金元の後期から明、清の時代にかけて、傷寒論から分かれて、温病の治療が大いに発展しました。
これによって中国の急性伝染病、特に疫病の治療は長足の発展をしました。
ところが、江戸時代の鎖国のため、残念ながらこれらの温病の理論は日本には伝えられませんでした。
この為、日本では温病も傷寒論の処方を応用して治療されていました。
中医学の歴史6 疫病の治療
さて、ここから日本と中国の漢方では大きな違いが生まれていきます。
まず、日本ではどうだったかというと、後世派の生ぬるい治療に嫌気をさして傷寒論の処方で疫病を治そうという一派が生まれました。
これが古方派という人たちです。
この時はまだ抗生物質が無かったため、命にかかわる急性病は最優先に治療されるべきでした。
こういった急性病は「病毒」が原因で、体質は関係ないと考えました。
毒が去れば病気は自然に治る、それで治らない場合はそれは天命だと考えました。
「古方の一時殺し、後世のなぶり殺し」と言われるように、古方派の人たちは体力が消耗する前に強い薬で一気に病気を攻めました。
この方法は急性病を治療するには今でも正しい方法と言えます。
古方派の治療方法は少々荒治療でしたが治療効果が良かったので、多くの人に支持されて、いつのまにか後世派は陰の薄い存在になってしまいました。
これに対して中国では、病気の治療において、急性病は去邪を主にし、慢性病は臓腑辨証を行うという考えたが普通でした。
日本のように後世派と古方派の対立というような事は無かったので、どちらの考えも発展していきました。
中医学の歴史5 金元4大家
金元の時代になると、中医学はさらに発達して、金元四大家という人たちが新しい理論をくりひろげて行きました。
特にその中の李東垣と朱丹渓の本は日本にも伝えられ朱李医学として日本でも広く用いられていました。
日本の曲直瀬道三などの本を見て見ると、日本式の漢方ではなく、全く今の中医学と同じように辨証論治をして治療していました。
曲直瀬道三などのように、朱李医学を基礎にして臓腑辨証を主に行って治療する流派を後世派と呼びます。
臓腑辨証は、不調の原因を考え、体質改善をしていくには非常に良い方法です。
ただ、疫病などの治療にはあまり適していません。
疫病は病気の進行が早く、一刻の猶予もありません。
とても臓腑辨証などで体質改善をしている時間は無いのです。
中医学の歴史4 宋改
さて、宋の時代は、医学が非常に発達した時代です。
このころ、新しい理論の発達だけでなくて、過去の古い書物を整理してまとめるという膨大な作業が行われました。
これを宋改といいます。
宋以前に書かれた殆どの書物が、ここで書き改められました。
宋改があったからこそ、宋以前の沢山の医学書が今残っていると考えられます。
ただ、残念な事に宋改によって多くの部分が書き直され、どこまでが原書の内容なのか、どこからが宋改によるものか解らなくなってしまいました。
傷寒論も宋改をうけました。
ですので、傷寒論の原文がいったいどのようなものだったのか今では誰にも解らない状態です。
この頃につくられた「太平聖恵方」は、殆どすべての病気を網羅している総合治療大系とも言えるものです。
中医学の歴史3 隨・唐の時代
傷寒論は後漢の時代に書かれたと考えられます。
今からちょうど2000年前くらいの書物になります。
さて、その後、隨の時代に『諸病源候論』という書物が書かれました。
これを見てみてると、病気がおこる原因を詳しく分析しています。
ちょうど病理学の本と言えます。
ただ、これだけ深く病理を掘り下げておきながら肝腎の治療方法については殆ど触れられていません。
とても残念な事です。
唐に時代になると「千金方」と「外台秘要」という書物が作られました。
この2は、簡単に言えば処方集です。
お医者さんがいつも持っている治療ガイドのようなものです。
内容としては、傷寒論、金匱要略の不足を補うもので、非常に広範囲な病気について語られています。
傷寒論、金匱要略は有用性が高いものでしたが、あまりに簡潔すぎて不足の部分が多かったと思われます。
千金方は臓腑ごとに病気をまとめ、辨証論治の基礎を作りました。
外台秘要は病名ごとに病気をまとめ、弁病論治の基礎を作りました。
隨・唐の時代は日本とも国交が深かったので、これらの書物もみな日本に伝わったと考えられます。
中医学の歴史2 傷寒論
黄帝内経は、中医学の理論をうちたてた素晴らしい本ですが少し足りない部分もありました。
それは「命にかかわる感染症」の治療です。
黄帝内経の治療は鍼灸を中心としたものでしたから、体の調節とか慢性病の治療には非常にすぐれていましたが当時流行した疫病などの治療にはあまり効果がありませんでした。
そこで登場したのが「傷寒論」という書物です。
傷寒論は実用書としてかかれています。
傷寒という病気(恐らくチフスなどの伝染病)にかかった場合の治療方法が誰にでも解るように「こういう場合はこうしなさい」という箇条書き風にかかれています。
この中には理論らしい理論は記載されていません。
しかし、ある程度読み込むと、記載されていないだけで、実に多くの理論や経験が含まれている事が解ります。
黄帝内経に比べれば極めて短い書物ですが、こちにも深く研究すると一生かかっても追いつかない内容です。
そこに書かれている多くの処方は今でも多用されています。
みなさんがよく知っている葛根湯とか小柴胡湯などはここに書かれています。
また傷寒論とセットで金匱要略という書物も書かれました。
こちらは慢性病の治療のガイドブックのような存在です。
ただ、その中の処方は簡潔で無駄がなく、かつ治療効果の良いもので、今でも処方のお手本にされています。
所で、傷寒論は日本にも渡り、沢山の写本が見つかっています。
その中には傷寒論の原本ではないか?と思われるものもあります。
ですので、傷寒論が日本に伝わったのはかなり早い時期ではないかと思われます。
中医学の歴史1 黄帝内経
今回より、何回かに分けて、漢方の歴史についてお話ししたいと思います。
昔の人がどのうにして、病気と向いあって来たか。
また、今の日本では「中国式の中医学」と「日本式の漢方」の2つの流れがあります。
この違いはいつ頃から、何故うまれたか、またどのような違いがあるかに付いてお話しします。
中医学の一番古い書物は何かは今では解っていません。
ただ、春秋戦国時代にかかれたと思われる「黄帝内経 こうていだいけい」という書物が現代中医学の基礎になっています。
黄帝内経は、特に臓腑と経絡について詳しく書かれています。
特に、陰陽五行説という中国古来からある東洋哲学の影響を強くうけています。
この黄帝内経は、後から書き加えられた部分が多くあり、どこまでが原書かは今となっては解りません。
ただ、臓腑の生理や病理が非常に詳しく書かれていて、今でもとても参考になる書物です。
2000年以上前の人が、このように緻密に体内のしくみを考えていたかと思うと頭が下がる思いです。
黄帝内経は漢方薬を使った治療については殆ど書かれていません。
鍼灸を使った治療については非常に詳しくかかれています。
この事から、古代は鍼灸による治療が盛んだったと考えられます。
(特に中国の北方では)
養命酒の宣伝でも「女性は7の倍数、男性は8の倍数によって支配されている」と引用しています。
7は奇数で、陽。8は偶数で陰です。
ですから、陰である女性は陽である7でコントロールされていて、陽である男性は8という陰数でコントロールされています。
このあたりの陰と陽との相互依存、相互対立はとても面白い理論です。
黄帝内経を研究するたげで一生あっても足りないと言われています。
これは一人の人の作品ではなく、非常に多くの人が協力して作ったという事です。
勿論、作者が誰という事も解ってはいません。
この頃の本は竹簡といって竹にかかれていました。
こんな古い本が今まで伝わっているという事自体、驚きを隠せませんが今でも第一級の実用書としての価値があることは信じられません。
「2000年前に宇宙人が地球にやって来て作った」という説も思わず信じてしまいそうな内容の本です。
血の生成
中医学的には、血は何処でどのように作られるのでしょうか?
食べた物は胃に入り、脾で精微物質として吸収されます。
それが上にのぼり肺近くまで運ばれます。
そこで、宗気とまざり赤く変化して、血となります。
宗気は肺で呼吸した大気と、脾からの精微物質で出来ています。
ですから、精微物質は、肺気とまざり宗気になるものと、宗気とまざり血となるものがある訳です。
さて、ここで大切な事は、血の生成には消化吸収した精微物質だけでなく、宗気が必要だという事です。
宗気の生成には肺から呼吸した大気が必要です。
つまり、血の生成には大気が必要という事です。
この事は、ただ必要なものを食べているだけではなかなか血は増えないという事です。
良い血を作るには宗気の生成をよくする必要があります。
その為には、肺の働きを強化します。
つまり、適度な運動が欠かせないという事です。
結局の所、体に必要なタンパク質や鉄分を充分に補い、頑張って必要な運動もしていく事が大切になります。
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